3月11日、未曾有の大震災が東北・関東で起きた。いまだに行方不明者が多数おり、死傷者の数は数知れない。被災された一人一人にかけがえの無い家族や友人や愛する人がいることを思うと、そして人災による放射能で痛めつけられた日本の大地、そしてそこを離れざるを得ない人々を思うと、深い悲しみで胸がいっぱいになる。自分にはいったい何ができるのか。そのことを考え続ける日々だ。

(存在の無根拠な不安)

人間とは存在の意味が問われる「場」であるというような考え方を20世紀最大の哲学者の一人ハイデッガーは持っていた(ように思われる)。もちろん、彼の主著『存在と時間』は難解なことで知られているので、拾い読みをしただけの僕が到底ちゃんと読めているとは思えない。しかし、1889年に生まれ、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、ヨーロッパ全体が大きな不安の中にあった時代、1927年ハイデッガー38歳のとき発表された『存在と時間』は、あらゆる「存在」に対するハイデッガーの不安に満ち満ちているように僕には思える。存在の無根拠な不安というものを、今回の自然災害を目の当たりにして、つくづく考えさせられた。優しい表情を見せていた一瞬後に恐ろしく変貌する存在。人間の理性や論理では到底とらえることの出来ない存在。しかし、存在は一方では、音楽や詩や絵画に見られる無根拠な美として僕らの前に現れる。美しさは無根拠な不安と表裏一体だ。人間を危うい場所に連れてゆく魔力を持っている。美しい海、そして津波とともに襲い掛かる海。柄にもなく、僕は3・11の後から、「存在」とは何かというようないくら考えてもわからないような本質的な問題に気持ちが傾いている。
(人は一人では生きられない)

一方で、僕は、「存在」の無根拠な不安を前にした、人と人とのつながりの力強さ、人の優しさ、暖かさをも感じ取っている。国内各地、世界各国から寄せられる力強いメッセージ、支援、本当の優しさにどれだけ勇気づけられたことか。人は一人では生きられない、支えあわなければ生きられない弱い存在だ。それゆえにこそ、優しさを必要としている。東京では計画停電が実施され、皆が家の中にこもりがちだったが、久しぶりに友人、知人と再会したときの感謝の気持ちは久しく味わったことの無い感情だった。
(本気で問題に向き合う)

本気で問題に向き合うことの大切さについて今回考え続けている。巨大地震が起き、巨大津波が襲来する可能性、原発の危険性については、繰り返し言われ続けてきた。にもかかわらず、本当の意味で問題を直視し、危機感を持って解決策を考えるという姿勢が無かったように思う。どこかで本質的な問題をうやむやにし避けてきてしまったのではないか。そこには、どこか自己欺瞞が隠されていたように思う。

被災し避難所で生活している方々が折り目正しい姿勢を崩さず、自分が大変な状況にありながらなおかつ周囲に心配りをする姿、原発の事故現場で命がけの作業を続けている方々の献身的な姿。海外からも賞賛の声が寄せられている。確かに日本人として誇らしい。しかし、これらを美談ですましてはならない。そのような状況に至らしめた本質的な問題は何かを問わなければならない。

世界的に見れば十分な豊かさが保障されている中で、問題の周辺をなぞっていただけではなかったか。問題を解決することではなく、問題を解決しようとしている姿を見せることで自己満足してしまっていたのではないか。そこには本気の姿勢ではなく、他人、周囲、世間からどう見られているかを気にする虚飾の姿勢しかない。

これは僕自身も含めた日本人のメンタリティと関係があるのかもしれない。例えば、震災後、東京都民は計画停電の影響もあり、生活の様々な面で「自粛」するようになった。知り合いの飲食店は客足が遠のき経営危機に陥っている。しかし、考えてみたい。自粛をすることが、現在直面している問題、すなわち被災者支援、被災地復興の問題、原発の問題の解決にどのように具体的、実質的に役立つのかをどこまで本気で皆が考えているかということを。自粛をしたことで何か良いことをした気になるというのは、本気で問題解決をしようという姿勢とは遠い。自粛している姿は一見美しく見える。しかし、そのことの本当の効果を考えないことには先に進めない。

今回のように生死のぎりぎりの状況を目の辺りにすると、生半可な気持ちで問題をうやむやにすることは許されないと誰もが気づかされる。本気で、「誰が笑顔になるのか?誰を笑顔にするのか?誰を笑顔に出来るのか?」を真摯につきつめていった先に、僕らのアクションは無くてはならないということを、大きな痛みとつらさの中で再び気づかされる。

(問題とは?そして、今僕らに出来ることは?)

問題とは、あるべき姿、目指している姿と現状とのギャップがあることだ。例えば、試験で100点満点を目指している人にとっては99点でも問題だ。しかし、50点で良いと思っている者にとっては51点とれれば問題無しだ。つまり、あるべき姿、目指している姿が明確でない限り、問題もはっきりしないということだ。これからの日本のあるべき姿、目指している姿を、みんなではっきりさせる営為がすぐにでも求められる所以である。その際、問題を回避したところに成立する、うやむやな空気、一人ひとりの言動を制約する空気、合理的ではない行動を半強制する空気には警戒しなければならない。それが一見美しく見えるときは尚更だ。誰もが問題を直視し、自分の頭で解決策を考え、確固たる信念のもとアクションを起こすことが求められる。そして、それこそが、今僕らに出来ることだ。
(GNCの使命)

GNCは阪神大震災が起きた年、1995年に設立された。そして、今また東日本大震災が起きた年に、法人化しようとしている。これは偶然とは思えない。GNCの使命は、共存を目指して、問題解決のアクションを一歩一歩積み重ねてゆくことだ。これは生半可ないい加減な気持ちで行えることではない。本当に喜んでもらえているのだろうか?本当に役立っているのだろうか?その問いかけを、これまで以上に真剣に投げかけ続け、かつ、アクションを起こし続けるしかない。今後、長きに渡って、3・11前、3・11後ということが言われるだろう。3・11はそれくらいの大きな区切りとなった。

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